博物館の功罪 こんな日は月でも観に行こう
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こんな日は月でも観に行こう

小さな変化に心を傾けてつづる空観流ひとりごと

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博物館の功罪

美術作品を誰もが楽しめるように集めて公開するのが博物館です。根付も日本を代表する美術工芸品として国内外の博物館で収蔵、開陳されています。貴重な美術品を保管し、公開してくれることは大変ありがたいことです。

日本で最初の博物館は1872年(明治5年)に日本と東洋の文化財の収集展示、調査研究を目的として東京国立博物館が創設されました。その後奈良や京都にも博物館が作られて日本美術の普及が始まりました。

私は仏像が好きでよく博物館や名刹を訪れるようにしてますが、二つの違いを感じざるを得ません。仏像もそうですが、日本美術の特質はその作品が我々に何らかの利益をもたらすために作られたものです。
仏像は心の祈りのために、障壁画は空間の装飾のために、根付はものを携帯するために存在し、作品としての自立性は求められてなく、実用されることに意味がありました。

博物館の出現によって用途を持たない美術品の展示が始まりました。体験する美術から鑑賞する美術に変わりました。

博物館では、作品は本来の目的からはずれ、時系列的に、体系的に、並列的に、権威的に並べられます。そのことで客観的に分かりやすく鑑賞者に作品の鑑賞の手助けをします。鑑賞者はもともと「仕組まれた」感動に誘い込まれることで、その芸術作品の理解をしたと思わされます。ここに落とし穴があると思っています。

芸術的な感動はあくまでも個人の体験から発するものであり、博物館にならぶ作品ばかりに美があるわけではありません。身の回りにひそむ美に目を向ければ、自然と見えてきます。世阿弥が語るように「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず」、美とは奥に潜んで隠されているのです。それを見つけるためには鑑賞者が常にアンテナを張っていなくてはなりません。

作品は所有されて、使われてこそ本来の目的を満たします。
仏像は長い石段を上がってほの暗いなかで安置されてこそ輝きを放ちます。
根付は使われて愛されてこそ光りだします。
それは私たちが美術品と一緒に同じ時間を過ごすことで、自らの体験に何らかの価値を与えることができるためです。

私たちが博物館で、作品に本来宿るべき輝きを観ることは難しいことを仕方ないとは思いながらも残念に思うことがあります。

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