芸術の主観性 こんな日は月でも観に行こう
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小さな変化に心を傾けてつづる空観流ひとりごと

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芸術の主観性

以前からまとめてみたいと思っていた、芸術の主観性について話します。
芸術とは個人の心にだけ働きかけるものなのか、誰にでも理解してもらえるものなのでしょうか?
その認識のし方により、いくつかのタイプと傾向にわかれるようです。
今日は少し趣向を変えて

芸術を創作することは、個人の才能や技術、学習などによるところが大きいのは確かです。数値化したり、作用の仕組みを可視化することはできないため客観性を持たないとの指摘も分かります。また芸術に触れることで湧き上がる様々な感情や葛藤は、平静をかき乱す不可解なものとされたりもします。
そうしたタイプは現実的な理性を重視するタイプで、芸術は奇想天外な非現実の世界であると見なされたりします。
また芸術は自然の模倣であるとして、芸術の独自性を疑います。
このタイプの人々のうち創造的な活動をこのむ人は発明などに才能を発揮したり、職人として創作活動を行ったりします。逆に享楽的な人は競馬などのレースやスポーツなど目に見える結果に一喜一憂したりします。

それに比べ、内向的な想像や直感を重視するタイプの人によっては、現実社会は、自らの思考の普遍性を証明する証拠であり、その背後に太古からの古い意識との共通性を見出そうとしたりします。このタイプにとって芸術は主観的な刹那的な要因に普遍性を与えた、現実そのものになるわけです。そのため現実社会は仮象のものでしかなく、その背後にある真実が現実を形作っていて、すべてに関係性を持っていると見る傾向があります。
そのなかで芸術は科学では説明できない心的要因を顕在化させる装置であり、現実界の真実の姿を描き出そうと試みる客観的事実なわけです。こうしたなかで創造的な人は芸術を志したりします。また享受的なひとは神秘主義的な要素が強くなります。

こんなことで芸術は見方によって主観的でもあり、客観的でもあり、一概に言えないところです。しかし人類にしか芸術を創造したり享受したりできる能力がないところを見ると、そこに秘められた大きな可能性を感じざるを得ません。


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