語り手の存在 こんな日は月でも観に行こう
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こんな日は月でも観に行こう

小さな変化に心を傾けてつづる空観流ひとりごと

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語り手の存在

091113_1057~0001錦秋の京都から戻りました。
観光客のあまり行かない西山地区をタクシーでめぐり、今回の一番の目的でもある宝菩提院願徳寺の国宝「菩薩半跏像」を拝観しました。千年を超えてたたずむ優美な姿はまさに私好み。時間を忘れ見とれました。
≫詳しくはこちら(以前の展覧会の記事から)

他にも多くの刺激を受け、その高揚感のせいか創作に没頭しています。
またブログの更新を心待ちにしていただき、うれしい限りです。

国宝を見て思ったのは、このブログを始めたきっかけについてでした。

私は文化的な発展について3つの存在が必要だと思います。
・作り手(物を作りだすことで価値を作る人)
・持ち手(物の必要性を認め使う人)
・語り手(物を相対的に比較し論じる人)
これら三者は互いに関係しますが、立場は全く異なります。そのなかで知識や言葉などを共有することが文化をつくっていくものです。

作り手と持ち手は二元的で双方の利害で成り立っています。現在の現代根付の状況はまさにそのような構造を持っています。創作者の一人として私も多くの持ち手に支えられて発展してきたことをうれしく思います。

そこで、これからとても重要になるのは語り手の存在です。作り手と持ち手だけで完結すると広く他の人に伝わりません。語り手によって客観的な視点から体系化することで立体的に整理することができます。そこで現在の根付業界の問題点が見えてきます。
日本美術や彫刻史の中での位置づけ、国宝や重要文化財の指定、教科書の掲載などなど、根付は社会的に認定されていません。またワシントン条約定款からすでに40年経った今でも頑なに絶滅危惧種として象牙の輸出入が縛られています。

千年後にも残る作品が根付にもあるとしたら、これからの活動のなかで何が重要なのでしょうか?そこに個人の作家の枠を超えた大義を感じます。時代は築かれるのでありません、私たちが築くものなのです。

私は作り手であり、語り手ではありません。作り手は作ったものこそが全てであり、作り手が多くのことを語るのは野暮なものです。何も言わなくても素直に感じた印象が感動を与えるものです。しかし、観賞する側にもセンスとボキャブラリーが求められます。個々の好き嫌いを超えたところで、別の評価もあるわけです。

私がこのブログを始めたきっかけは、その語り手を探すためです。空観という実験体を使って何が語れるのか?根付にどのような見方を与えられるのか?私に代わって語り手ならどのように語るだろうかと思います。
作り手がつづるブログは多くの場合、シンパシーの強要か自己満足に終始していまいがちです。私がブログで求めるのは、根付というジャンルで新しい議論を増やしたいからです。

少し長くなりましたが、将来国宝の根付が美術館で展示される時代が来るとしたらワクワクしませんか?

写真は願徳寺のそばにある通称「花の寺」と呼ばれる古刹・勝持寺での1枚。

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