カテゴリー :創作ノート こんな日は月でも観に行こう
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こんな日は月でも観に行こう

小さな変化に心を傾けてつづる空観流ひとりごと

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間合い~鑑賞者とともに完成させる美

夕顔 箱と袱紗ここ最近ブログの更新ができていなくて、書きたいことがたくさんたまってしまいました。また少しずつ進めていきます。

今日は私が考える良い作品について。
それは、作品と鑑賞者との間にいつも距離感をもっているものだと思います。近寄りがたい迫力と近づきたい求心力のなかで鑑賞者は居心地の良い場所を見つけます。その距離感を埋めるように作品との対話を無言のうちに交わし、その背景や作家の生きざまや息遣いまで様々な思いを巡らします。間合い、余白、行間、いろいろな呼び方はありますが、その距離感にこそ美の本質があり、そこで初めて鑑賞者は「静かな衝撃」に胸躍らせるのです。

芸術とは作品自体で完結するのではなくて、観賞者とともに完成させるものと言えます。その距離感を持てる人は美的感受性の強い人とも言いかえられます。少し話がそれますが、美術教育のなかで実技の習得に時間が割かれ、作品の正しい鑑賞を促すことが少ないのは残念なことです。

間合いの大切さは、お能や茶の湯、邦楽、武道などをはじめ、多くの芸道で説かれています。この間合いを学ぶことが奥義につながっています。
またこの間合いというのは美意識のなかでも感じられます。江戸の「いき」や「いなせ」は社交の間合いの達人とも言えるのではないでしょうか。出すぎず引きすぎず、ちょうど良い、かといって優柔不断でなくて潔い。そんな間合いが「いき」なのでしょう。

根付においても、間合いは道具と作品との違いになります。。道具としての根付には、この間合いを持ちません。作品としての根付は間合いを持つことで、持ち手の想像を膨らませ、楽しみや喜びを与えるものになり得るのです。創作はテクニックではありません。この間合いを作ることが作品に奥行きを与えることになるのです。

写真は夕顔の箱と作品を包む袱紗。箱の側面には、ご注文された方のしゃれた発想で、夕顔が光源氏あてに詠んだ歌の上の句と下の句を書き散らしています。

| 創作ノート | 09:59 | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

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芸術の主観性

以前からまとめてみたいと思っていた、芸術の主観性について話します。
芸術とは個人の心にだけ働きかけるものなのか、誰にでも理解してもらえるものなのでしょうか?
その認識のし方により、いくつかのタイプと傾向にわかれるようです。
今日は少し趣向を変えて

芸術を創作することは、個人の才能や技術、学習などによるところが大きいのは確かです。数値化したり、作用の仕組みを可視化することはできないため客観性を持たないとの指摘も分かります。また芸術に触れることで湧き上がる様々な感情や葛藤は、平静をかき乱す不可解なものとされたりもします。
そうしたタイプは現実的な理性を重視するタイプで、芸術は奇想天外な非現実の世界であると見なされたりします。
また芸術は自然の模倣であるとして、芸術の独自性を疑います。
このタイプの人々のうち創造的な活動をこのむ人は発明などに才能を発揮したり、職人として創作活動を行ったりします。逆に享楽的な人は競馬などのレースやスポーツなど目に見える結果に一喜一憂したりします。

それに比べ、内向的な想像や直感を重視するタイプの人によっては、現実社会は、自らの思考の普遍性を証明する証拠であり、その背後に太古からの古い意識との共通性を見出そうとしたりします。このタイプにとって芸術は主観的な刹那的な要因に普遍性を与えた、現実そのものになるわけです。そのため現実社会は仮象のものでしかなく、その背後にある真実が現実を形作っていて、すべてに関係性を持っていると見る傾向があります。
そのなかで芸術は科学では説明できない心的要因を顕在化させる装置であり、現実界の真実の姿を描き出そうと試みる客観的事実なわけです。こうしたなかで創造的な人は芸術を志したりします。また享受的なひとは神秘主義的な要素が強くなります。

こんなことで芸術は見方によって主観的でもあり、客観的でもあり、一概に言えないところです。しかし人類にしか芸術を創造したり享受したりできる能力がないところを見ると、そこに秘められた大きな可能性を感じざるを得ません。


空観的分類

| 創作ノート | 07:00 | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

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根付の着色

ヤシャブシ根付の仕上がりを左右するマチエールのひとつに色つけがあります。マチエールはもともと油絵の具を手で混ぜ合わせていた時代の名残で、その名人をメチエと読んでいたことに由来します。現在では素材や材料による美術的な効果を指します。

根付のマチエールは作家の考えかたや題材の意図によって様々あります。
象牙の場合、色合いが肌色に近い白なので、着彩してもよく映えます。フィギアやバードカービングのようにリアルな色彩を施すと対象を鮮やかに甦らせて、説明を要しないほど雄弁に鑑賞者に語りかけます。バーチャルな世界ほど、リアルな錯覚を強要します。驚くのはその再現性です。

私の場合は色が必要な場合は象篏をして、ごくシンプルな染めしかしていません。天然のヤシャブシ(夜叉五倍子)による煮出した染め液に浸しながら調整しています。
顔料を使用した色彩は苦手ということもありますが、色彩に頼らないで、表面の彫りの深さを変えたり、模様を入れたり、艶出しや粗しなどのマチエールで変化をつけています。
彫刻の面白さは造形の妙にこそあって、色彩はかえって観る人に先入観を与えてしまう虞があるからです。色彩のない陰影の世界に鑑賞者が入り込み、自由に想像力を広げられるような作品を作れたらいいなと思います。

と同時に、効果的な着彩の方法も探っていきたいと思っていますが遅々として進んでいません。

現在のようなメディア社会では情報は与えられるものとして慣れてしまうと、自分から情報を読み解こうとしなくなるものです。今や空想や想像は訓練と体力がなければ難しい時代になってきたのかもしれません。

写真は染めに使っているヤシャブシ。最近は花粉症の原因にもなっているらしい厄介者です…。

| 創作ノート | 16:40 | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

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根付の玉手箱

久しぶりの更新となります。新作も鋭意邁進中です。
これから創作する作品を構想をあれこれ考えては楽しんでいます。今日はいくつかのテーマを自分への覚書としてつづります。

・蝦蟇仙人:金運を招くとされる3本足の蛙(青蛙神)を従える中国の代表的な仙人。この蛙と我慢比べしているちょっと滑稽味のある仙人

・吉原芸妓:お気に入りの二人の芸妓を比べた小唄の「五月雨」より。粋であでやかな宗理風美人の競演。

・三猿:見ざる言わざる聞かざるの空観版。3匹の猿がお互いの干渉をしたがっているところ。

・ロボットの夢:がらくたやポンコツという響きが懐かしく思える新品だらけの現代。使い古されたスクラップで作られたロボットが描く夢とは、人類への警告か共存か?

・メデューサ:その目を見ると石に変わるというメデューサ。彼女は自分の美しさを見たいがために鏡で自分の顔を映し、自ら石に変わっていってしまう。

・ヴィーナス:進化のイメージ

・月のゴンドラ:三日月のゴンドラに乗って大空の海を漕いで渡る少年。向かう先はまだ見ぬロマン。

・ゼンマイ仕掛けの時神:生命の期限をつかさどる時神(死神)がゼンマイ仕掛けであったなら、誰がそのゼンマイを回すことができるのだろうか?その時神は地球そのものかもしれない。

今のところこんな作品の構想を練っています。大作ばかりの空観流玉手箱、こうご期待。

| 創作ノート | 07:42 | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

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時の妖精

今日は根付にしたいテーマを考えていたら、こんな物語を考えてました。

まだ神々が天にいたころ、時の妖精である彼女はある日、妖精の世界から抜け出し、憧れだった人間界に降りてきました。

妖精の世界では毎日決まったことの繰り返しで、年をとることもありません。ましてや恋することも知りませんでした。彼女の役目は一日一回夕暮れ時に自分の持っている鎌を振ることでした。彼女は知りませんでしたが、それは人間たちに順番に時を知らせる時の鎌だったのです。彼女はそんな規則ばかりの妖精界に飽き飽きしてしていたのでした。

彼女には人間界が笑いや喜びに満ちあふれて見えていたのです。そこならどんなに楽しいかと胸をわくわくさせてこっそり抜け出したのでした。しかし憧れと程遠く、苦しみやねたみ、暴力など悲しみばかりの世界でした。そんな人間たちには、彼女の姿は見えず、ぶつかられたり大声を出されたりと散々な目に会います。行くあてもないまま街をさまよい、疲れて倒れてしまいました。

気づいたら優しい心を持った人間の少年に助けられました。彼の優しい心には妖精は見えたのです。彼は病と闘い、その命はあと僅かだったのです。自分がもうすぐ死ぬことを分かっていたので、彼は人を思いやることができたのです。

妖精は人間界で初めて優しくされた少年に、初めての感情をもちました。ずっと彼と一緒にいたいと思ったのです。彼女が彼を助けたいと願うほど、彼は弱っていきます。そこで彼女は知ったのです。いつも彼女が振り下ろしていた鎌で時を知らせるのは人間の命の終わりだったということを。そして次の順番が彼だったことを知ると、彼女は神に自分の命を引き換えにして彼を助けて欲しいと、願いました。

しかし神は反対し許しませんでした。でも彼女は神の声も聞かず、鎌で自分の胸を刺したのでした。妖精と時の鎌はそのまま消えてしまいました。

少年の病が良くなったのはそのあとでした。
彼はその妖精に二度と会うことはなかったそうです。



僕の根付のイメージは、
彼に助けられたときに彼と一緒にいたいと夢見る妖精の嬉しそうな表情としぐさを考えていました。

| 創作ノート | 22:47 | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

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蝦蟇仙人

空観 蝦蟇仙人今取り組んでいる作品は、蝦蟇仙人です。
中国の仙人で3本足の蝦蟇を従えて、様々な妖術を使うとされています。月に棲む蝦蟇を金貨で釣り上げたといわれるため、金運を招くとされます。調べると三国時代の呉の葛玄(かつげん)、および五代後梁の劉海蟾(りょうかいせん)をもとに脚色したとされます。『桂林漫録』によれば、海蟾は山中にて仙術を得、蓬髪洗足姿で三足の疋蛙を弄んだといわれます。

また、この蝦蟇は青蛙神(せいあじん)と呼ばれ、天災を予知するとされます。中国では大変縁起が良い福の神として「青蛙将軍」「金華将軍」とも呼ばれます。道教信仰が生んだ霊獣として人気があります。

日本でも蛙は「帰る」「返る」に通じるとされ、語呂合わせで親しまれています。
そのなかでも「無事蛙(ぶじかえる)」「金蛙(かねかえる)」などは実際に商標登録までされているそうです!

| 創作ノート | 08:49 | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

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劇的な瞬間

空観 牧神の恋彫刻は動きの一瞬を固定化し、主題を最も表す劇的な頂点を形にする。

私は悲劇の構造に関心があった。物語の形式としては悲劇と喜劇に大きく分かれ、古代ギリシアに成立したとされる。アリストテレスによれば、悲劇は人間の真理や崇高さを描き出すものとして、芸術の最高位と評価した。

悲劇は主人公の不幸や悲惨な出来事を題材として、主人公が破滅や受難と立ち向かい克服する過程が表現される。
例えば「ロミオとジュリエット」。このドラマではいったい誰が悪いのだろう?なぜ悲惨な結末を迎えたのだろうか?

破滅的な結末ではしばしば主人公や近しい存在が死ぬことも多い。主人公の献身的な、純粋な魂の叫びが報われることなく運命や社会環境や対立する人間関係の中で打ち砕かれていく。

その悲劇性が高ければ高いほど、観客はその絶望的な世界に、一筋の光明が見たくて物語に惹きつけられる。

非日常的な誇張された虚構のなかに、人間の本質的な、普遍的な真理を見出そうとする。

主人公の立場に同情や共感を覚え、喜びや慰め、恐怖、怒りなどの様々な感情を一緒に体験して、観客は自らの感情を浄化させていくことに、悲劇の本質はある。

今度は作る側からの視点でいえば、主人公の成功を如何に阻止するか、決して報われない悲惨さをどう表現するかが大切になる。運命のいたずら、社会的犠牲、周囲との対立、良心の葛藤、死と狂気の幻想、悪の存在、嫉妬、疑惑と様々な罠を準備する。

悲劇的な創作姿勢は演劇に限ったことではなく、絵画や音楽、文学といった芸術全般に及び、彫刻にも見ることができる。

私は根付の中にも悲劇的な瞬間を表現することで空観流根付の特長を盛り込もうと試みた。
美しさの奥に潜む底知れない闇の世界を表現できなければ、本当の美しさを表現できないと思っていた。

彫刻が永遠の一瞬を刻む限り、その意味を問い続けることが彫刻家の使命である。

写真は「牧神の恋」。





| 創作ノート | 07:55 | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

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素材の活かしかた

木取り今日は材料の取り方についての創作ノート。作品づくりにおいて最初に検討するのは素材です。素材となる黄楊は限りある貴重なものであるのと同時に、作品との相性があるので無駄にしないためにも時間をかけて吟味します。私は手に入る可能な限り最上の材料を使うようにしています。
黄楊の場合は次のようなポイントで選びます。

まず10年から30年乾燥させて狂いのでないもの。そして年輪や向き、太さ、節の位置、重さ、緻密さ、耐久性、風合いなど素材の個性を思いながら選んでいきます。作家にとって一番心躍る瞬間です。相性のいい素材は自然と木の中に作品が浮かんで見えます。

それから私が一番気をつけるのは顔の向きです。ほぼ同心円状に広がる年輪に対して顔をどう向けるか?
例えばふくらませた両方のほっぺに輪ができるようにとか、とらなら木の年輪が縞模様のように入るとかといった効果も生まれます。また外周に向かうほど年輪の間隔は開くので、年輪を見せないように均一な地を活かした女性の顔といった具合です。顔でなくても布袋の腹に同心円状の木目が入るとか、両肩に左右対称の木目が入るとか、そのような作品には行き届いた作者の愛情が感じられます。

置き物や他の木彫の場合は素材の垂直性が重要視されます。ですがしばしば顔に斜めに入る年輪を見ると残念になります。木目の良さが台無しです。着色するなら木目は気にならないでしょうが、着色をしないならなおさらです。根付は360度全体の彫刻だから可能なのですが、顔の向きに合わせて木取りを変えられます。根付だからこそ素材を自由に扱えるのは根付作家だけに許された至福のひとときです。

卒都婆小町では安定感を持たせた三角形の構図ですが、小町の顔は僅かに左に傾かせ、さらに少し上を向かせています。木取りでもそれに合わせて木の向きを変え、木の芯から放射線状に顔の位置を決めています。

| 創作ノート | 12:18 | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

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彫刻家になるには

彫刻家特有の目があると、ふと思う。

物体を立体的に見ること。連続した表面が360度回転して見えてしまう。または立体のなかの重心軸を引いてみたり、見えないはずの骨格や筋肉まで透視してしまう。ここまで来ると少し偏執的かもしれないが、通り一遍の見方だけでは立体にならないから、これは職業病かもしれない。

彫刻の基本は素材となる塊の中から最大限の空間を効果的に使って作品を彫りだすことである。効果的というのは素材の制約に左右されずに実在感や躍動感を出すことと考える。そのため予め完成形をイメージしておくことが大切となる。
単純に言えば彫刻では正面の平面と奥行き(上面図または側面図)が必要になる。これが絵画との違いであるのは当然なのだが、彫刻を志してもこれがなかなか難しいため、この段階でつまづく人も多い。複雑に入り組んでいる場合はなおさらである。

絵画でも遠近法があるのでそこから奥行きを推測できる。彫刻の場合遠近的な奥行きではなく物体の同心円的な距離関係が奥行きとなる。立体を見る場合無意識のうちに回転軸を想定して距離を測っている。

このブログをお読みの皆さまの中に彫刻家を目指す人がいるかもしれないから、改めてもう少し詳しく語ろうと思う。

| 創作ノート | 10:17 | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

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彫刻家の眼

先日「彫刻家になるには」ということで彫刻家の立体の捉え方を紹介した。今回は具体的に説明していこう。

画家の眼まず、形而下の物体は全て立体として高さ、幅、奥行きで測ることができるのはご承知のことではある。絵画ではその物体が平面上あたかも存在しているかのように描くために遠近法が生まれた。例えば左図の通りである。

絵画における遠近法とはレオナルド・ダ・ヴィンチがこのように述べている。「絵画は、触れることのできぬものを触れられるように、平らなものを浮き上がっているように、近いものを遠いように思わせる奇跡さながらである。」

このように絵画とは平面を3次元的な空間と錯覚させることということができる。しかし彫刻は3次元である立体でありながらその立体の捉え方には違いがある。

彫刻家の眼
彫刻における遠近感とは物体の中心線から同心円的な距離感を指し、彫刻を回転または違った視点から見ることでその距離感を面として認識することができる。そこには時間の経過があり、その時間の感覚のなかで物体の量感や動勢を見いだす。

彫刻の中で素材となる塊から彫りだす場合、正面と側面、または上面を描いて進めるのが一般的で単純な方法であるが、さらに言えば、彫刻家はその間の斜めの角度からのつながりを如何に美しい曲線でつなげていくかに心を砕くものである。

そのため立体のなかの回転軸または中心線、あるいは重心を見つけようとするものだ。ここでは便宜上、中心線と総称するが、この線からの距離によって凹凸が生まれ、面と面との継続した流れや強弱がつくことで立体特有の美しさを感じさせる。また中心線の傾けたり、わざとひねったり、S字曲線にすることで複雑な効果を観る側に与える。
人が彫刻を観る場合、自然とそうした見方で鑑賞しているはずである。

さらには、彫刻は眼の前で触れられるものを触れることができるようにしながらも、現実の世界を超えるような存在感を与えさせる神秘だといえる。

| 創作ノート | 09:05 | comments(-) | trackbacks(-) | TOP↑

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